父が他界して10年が過ぎました。
今日は親父の命日だったか…
— ジロ@Jiroの端株投資奮闘記 (@JIRO_invest) 2019年1月10日
私は兄弟と年が離れているため、必然的に私の同級生と比べて親の年齢は高かったです。
父が亡くなった当時30代だった私も40代前半、いや中盤となり、私が物ごころついたころの父の年になりました。
書いていてふと考えたら、私と私の娘の年齢差と同じかもしれません。
まあ、誰のためにもならないかもしれませんけど、自己紹介的に私の父親との思い出を少し書いてみます。
父親との思い出
日曜日には家にいないものだと思っていた
以前も少し書いたのですけど、私の父は自営業で仕事をしていた関係で、日曜日も仕事していたりして、あまり父と遊んでもらった記憶と言うものはありません。
私が父とキャッチボールをしたのはたったの1回だけ。
近所の友達が、父親とキャッチボールをしているのを見て、「なんであそこのお父さんはキャッチボールをしてるんだろう?」と不思議に思った覚えがあります。
なので、父親と遊んでもらったという記憶はほとんどありません。
その代わり、兄がキャッチボールや将棋といったことを教えてくれました。
絵が上手だった
父は絵がとても上手で、結露で曇った窓ガラスにアニメのキャラクターを描いてもらうのが好きだった覚えがあります。
年賀状には毎年父が描いた干支の絵を印刷して出してました。
当時はプリンターとかプリントごっこと言ったものはなく、どうやって印刷してたのかはわかりませんけど、なんか版画っぽいヤツだったように記憶しています。
酒が大好きだった
とにかく父は酒が大好きでした。
仕事から帰れば遅くまで晩酌し、母が寝るのは日が変わってからといつも嘆いていました。
ただ、酒を飲んだからといって翌日休むようなことは絶対にしませんでした。
「とにかく自分で稼いだお金で飲む酒が好き」と常々言ってました。
多方面に博学だった
なんであんなに物事を知っていたのかわかりませんけど、とにかくいろんな方面によく物事を知っていたように記憶しています。
父の兄弟は、世間でいう宮廷大学に通った兄弟もいるにもかかわらず、複雑家庭環境で貧乏くじを引いた父は、中学卒業と同時に働きに出ました。
一つには学歴にコンプレックスがあったのかどうかは知りませんけど、人の倍は本を読んだと言ってました。
今でも尊敬している点の一つです。
でも私は父親が嫌いだった
父親と過ごす時間が嫌いだった
よく女の子は、お父さん臭いとか言って嫌う時期はあるようですが、私の場合は少し違って、とにかく怒られた印象は強くあります。
父の葬儀の遺影を見て、遺影の写真が優しすぎると言ったら兄弟みんな笑ったくらい、兄弟みんながよく怒られた印象があります。
なぜあんなに怒ったんだろう?
母もいまだに「なんであんなに怒ったんだろうね」といいます。
一番の被害者は兄だそうですが、私も小学校3年生くらいから中学の間は毎日毎晩30分以上立たされて怒られたような記憶があります。
まあ思い返してみれば、私の母に対する態度だったり、習わせてもらったピアノの練習をさぼったり、思い当たる節は多々あるものの、とにかく父と夕食を一緒に食べるのが嫌だった覚えがあります。
なので、わざと父親が帰ってくる前に時間を避けて食べたりしてました。
でも、あることを境に、ぱったりと怒られることはなくなりました。
それは私の高校進学。
父との距離が縮まった日
私が高校に進むと、怒られることはぱったりとなくなりました。
嘘のようにぱったりと。
父自身16で働きに出たことから、一つには父の中で親子という関係が変わったのかもしれません。
私自身も、このころになると自分の息子に対する接し方も変わりました。
中3の息子。
これぐらいになると可愛くなくなるかな?って思ってたけど、小さい頃みたいにしつけというものもガミガミ言うことなくなったし、下の子を監視という面でも頼れるし、小さい頃とはまた違った可愛さがある。— ジロ@Jiroの端株投資奮闘記 (@JIRO_invest) 2017年11月13日
15年前に息子を抱っこして降りた坂を一緒に降りる。
ひざが悪いおいらには少々酷な坂…
将来おぶってもらう時が来たらそれはそれでありな気はする pic.twitter.com/NPpJl4Lato— ジロ@Jiroの端株投資奮闘記 (@JIRO_invest) 2018年9月15日
あと姉が嫁いだり、孫が産まれたりという背景もあったかもしれません。
買い物に一緒に出かけたりして、服なんかを買ってもらうこともあり、私が大学進学して家を出てからは、一緒に酒を飲みながらいろんな話を聞かせてもらいました。
- 飲み過ぎた酒を言い訳に仕事を休んじゃいかん
- 男はモテたいと思わなくなったら終わり
- 何をしたかより、何を続けたかが大事
などなど
まあ、いろんな名言、迷言があるけど、いい時間を過ごせたかなと思います。
私が大学卒業、社会人1年目に還暦を迎えました。
還暦のお祝いに兄弟で送ったハワイ旅行
私の大学卒業したとき、兄弟で両親にハワイ旅行をプレゼントしました。
戦時中の思い出から、アメリカ何ぞに・・・と言っていた割に、空港に返ってきた父は、アロハシャツにサングラスで「アロハ~」と言って帰ってきたという話は、いまだに笑い話です。
その後、世界各地を母と飛び回わりました。
死因はガンの転移
父が亡くなった原因は前立腺がんからの転移でした。
数年に渡り、手術や入退院を繰り返し、最後は緩和病棟で息を引き取りました。
姉はちょうどFP2級の試験勉強中で、緩和病棟で苦しむ父の横で、相続の勉強をしてる私ってどうなんだ?って後に笑ってました。
父親が生きている間に出来てよかったこと
一緒に仕事した
私は中学3年生の冬休みから、父の手伝いをして小遣いをもらってました。
その後高校、大学の帰省の時には一緒に仕事をして、バイト代をもらってました。
父がガンで仕事を引退してからも、当時の話で盛り上がったり、「自分は、こういう仕事をする父親に育ててもらったんだ」と実感できたのはとてもいい思い出になってます。
一緒に酒を飲んだ
大学で家を出たので父と過ごす時間は短かったけど、帰省した時にはいつも飲んでました。
子供のころに遊んでもらえなかったことや、よく怒られて嫌だったこととか、酒の場でいつも言ってた気がします。
その当時の父はもう昔の様な怖い、怒る父親ではなく、人生の先輩として家族のこと、子供の事、仕事の事など、いろんなアドバイスをしてくれたように思います。
親がしつけるのは当たり前のこと
私はなかなか箸の持ち方がなおらなかったようで、幼少期にはかなり怒られた覚えはあります。
その当時は嫌だったけど、私が大人になりそのことに感謝ことを伝えると、「親が子供が将来恥をかかないために躾をすることは当たり前のことなんだ」と諭してくれました。
改めて感謝しました。
腕相撲をした
負けん気の強い父は、昔から腕相撲で負けたことがないと言うほど強かったんですが、私も結局父に勝つことが出来ませんでした。
いや、最終的には勝つことが出来たと思うけど、父がひじを痛めてからはすることもなくなったし、むしろそんな父に私が勝ってしまうことも嫌だった。
親父、負けたことにしといてやるよ
ここんとこ腕相撲が格段に強くなった息子。いつ頃負かされる時がくるやら(;´д`)
— ジロ@Jiroの端株投資奮闘記 (@JIRO_invest) 2017年11月26日
こうして自分も息子に負ける日が来るんだろうな。
まとめ
私は父と18年ほどしか過ごしませんでした。
大学で広島に来て帰らずに家を建てて生活をはじめたことが気がかりで、それを母に伝えたら「父さんは、あんたが仕事をして、家族を持って、家を建てて生活してくれてる事に安心してたよ」と言ってくれました。
父にはめちゃくちゃ怒られたけど、とても子煩悩だったような気もしますし、父の家庭環境が複雑だっただけに家族との接し方がわからなかったんじゃないだろうか?と邪推したりしてます。
今自分が子供だった頃のことを思い出すと、父親から怒られたことやしてもらったことと言うのはよく覚えてるものですし、こうして家族と言うものが続いていくんだろうなとふと思いました。
▽私の記憶では母からはお金の話、父からは戦争や仕事に関する話をよく聞かせてもらった覚えがあります。
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